作品撮りをする時にしばしば参考にする表現方法で、シュルレアリスムに影響を受けていることが多いです。
今回発表した作品もシュルレアリスムを意識しています。

すごく簡単に言うと夢の中の世界を表現すること。
つまりなんでもありの世界。
今回はそのシュルレアリスムをまとめました。
シュルレアリスムは、1924年のアンドレ・ブルトンの「シュルレアリスム宣言」から始まる芸術運動である。
近代的な考え方を批判し、意識では捉えきれない無意識の世界(新しい現実)を表現することを目指した、20世紀の芸術に大きな影響を及ぼした運動のひとつです。
活動当初は、おもに美術と文学で用いられた前衛的な表現スタイルだったが、その後、芸術全体にわたって幅広く用いられるようになった。
シュルレアリスムは絵画だけでなく、映画、文学、彫刻、音楽、ダンス、演劇、ファッションなど芸術表現の大半に適用できる表現方法として知られますが、物の見方や生き方にまで広がる哲学的運動としても展開されました。
さらに、マンガ、アニメーション、ゲーム、インターネット動画など現代の芸術表現でもシュルレアリスムは利用されている。
シュルレアリスムは、フロイトの提唱した精神分析理論を支柱として、人間の無意識に芸術の根源を見い出し、現実の奥に隠された『現実を超える現実』を表現して、真の自由を獲得するという運動です。
当初シュルレアリスム運動が理想としていたのは『夢と現実の矛盾した状態の肯定』だった。
その活動は発祥地であるパリはもとより世界的な展開をみせ、イギリスやベルギー、チェコを はじめとするヨーロッパ各都市やアメリカやメキシコにも影響を及ぼしました。
それは日本に おいても例外ではなく、大戦間から戦後 50 年代に至る前衛写真の領域において、純粋な視覚 表現から、広告やファッションに至る多方面に浸透していきました。
シュルレアリスムの芸術家や思想を実践する人をシュルレアリストと呼びます。
カタカナ表記として、「シュールレアリスム」「シュールレアリズム」「シュールリアリズム」などさまざまに表記されますが、フランス語の発音から「シュルレアリスム」が正しい表記です。
日本語では『超現実主義』と訳され、日本の芸術にも独自の発展を促した。
20世紀(1900年代)の半ばまで続いたシュルレアリスムを代表する画家には、ルネ・マグリット、サルバドール・ダリ、マックス・エルンストなどがいるほか、パブロ・ピカソやマルク・シャガールもシュルレアリスムの影響を受けているといわれます。
また、画家で写真家のアンリ・カルティエ・ブレッソンや、マン・レイといった作家の作品にも、シュルレアリスムの影響が反映されています。
シュルレアリスムの発生は、18〜19世紀に絵画に新たなモチーフを持ち込んだ新古典主義や象徴主義からつながっているといわれます。
同時代の20世紀前半のダダイズムや抽象表現主義とならんで、シュルレアリスムは前衛的な芸術様式という評価を受けています。
日本においては、美術評論家の瀧口修造(1903-1979)が、1928年にブルトンが発表した《シュルレアリスムと絵画》を、早くも1930年に日本語に翻訳。これがきっかけとなり、1930年代を通して「超現実主義」という訳語のもと最新の前衛美術のスタイルとして一大旋風を巻き起こした。しかし、こうした広がりのなかで「シュルレアリスム」は、第二次世界大戦へと向かう時代の閉塞感と響き合い、しだいに現実離れした奇抜で幻想的な芸術として受け入れられていく。そして、東洋的な思想と混ざり合いながら、独自の絵画表現や日本独特の「シュール」という感覚の誕生に至った。
シュルレアリスムを代表する芸術家
ルネ・マグリット
1898年11月21日-1976年8月15日
ベルギー・レシーヌ出身の画家。
幼い頃から絵を描くことが好きで、18歳のときブリュッセルの王立美術アカデミーに入学します。
当初の作品には印象派の影響が見られますが、その後キュビズムなど前衛表現を模索しながらシュルレアリスムに出会います。
ジョルジョ・デ・キリコの作品『愛の歌』に感銘を受けたことがきっかけで、印象派からシュルレアリスムの方向へ作風が変化していきました。
ある物体が、現実的にはありえない場所に置かれていたり、ありえないサイズで描かれる手法(デペイズマン)をたくみに利用するシュルレアリスト。
初期はエロティシズムや女性を主題とした作風だったが、1930年代以降になると、ほかのシュルレアリストに比べて内面的な表現はかなり抑制され、《白紙委任状》のような錯覚を取り入れただまし絵作品や、《イメージの裏切り》のような哲学的要素の高い理知的な表現が際立つようになる。
そのため多くの美術関係者以外の知識人にも人気が高い。また、具象的でインパクトが強い絵画でもあるため、サルバドール・ダリ同様、のちのポップカルチャーへの影響も大きい。
シュルレアリスムのリーダー、アンドレ・ブルトンと対立があったものの、生涯シュルレアリスムの表現思想には忠実だった。またポップ・アート、ミニマル・アート、コンセプチャル・アートなどアメリカ現代美術に大きな影響を与えている。
波乱や奇行とは無縁な生涯でしたが、ビートルズのアップルレコードのロゴなど、今現在も多くの広告表現やグラフィックアートに影響を与えています。
サルバドール・ダリ
1904年5月11日-1989年1月23日
スペイン出身の20世紀を代表する最も多才な画家です。
1924年から始まったシュルレアリスム運動に影響を受け、自身も運動に参加する。特にパブロ・ピカソ、ジョアン・ミロ、イヴ・タンギー、ジョルジュ・デ・キリコ、マックス・エルンストなどから多大な影響を受け、彼らの影響が色濃い作品を多数制作した。
代表作1931年8月に完成させた『記憶の固執』では、絶対的な時間というものを表している「時計」と、溶けた姿形から曖昧さを連想させる「カマンベールチーズ」という対照的な存在を合わせています。
ひとつのイメージに別のもうひとつのイメージを重ね合わせたこの手法を、ダリは自ら““偏執狂的批判的方法””と称し、シュルレアリスムの新たな可能性を生み出しました。
絵画以外の活動も多彩で、メディア露出をほかのシュルレアリストより重視していたのが最大の特徴。
著述、映画、彫刻、写真などさまざまな大衆メディアに頻繁に登場。 ファッション誌「VOUGE」の表紙画や、ウォルト・ディズニーとのアニメーション作品、そして宝飾デザインに至るまで、その才能をいかんなく発揮していきます。アメリカでは大衆文化のスターとなり作品のみならずダリ自身の人気の高さから、『Time』誌の表紙にもなった。撮影はなんとマン・レイ。
特に注目を集めたのはダリの奇行癖。作品以上にむしろ奇行のほうが知られていたといっても過言ではない。
しかし、その商業的な作品や行動、またフランコ独裁やヒトラーなどファシストへの加担をほのめかす政治姿勢に疑問を持った、シュルレアリスムの創始者アンドレ・ブルトンから反発を受け、グループから除名されることもあった。
ダリはチュッパチャップスのロゴマークをデザインするなど、実に幅広い表現活動をしており、商業的な成功を収めたことで、同じシュルレアリストたちからは””Avida Dollars””(ドルの亡者)とも揶揄(やゆ)されていました。
マックス・エルンスト
1891年4月2日-1976年4月1日
マックス・エルンストはドイツの画家、彫刻家、グラフィックアーティスト、詩人。ダダおよびシュルレアリスム・ムーブメントの開拓者。ケルン・ダダを創始。
マックス・エルンストは、20世紀初頭の世界大戦への反発から美術界に起こった運動「ダダ」と「シュルレアリスム」を結び、当時の前衛芸術をけん引した重要な画家です。
無意識の世界を写し取るオートマティスムの手法を研究し、コラージュを創始した第一人者としても知られています。
1921年にコラージュ作品を発表して大きな影響を与える。コラージュの代表作は『百頭女』や『カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢』といった物語とコラージュを融合させたコラージュ・ロマンシリーズ。鳥と人間の合成したキャラクターで知られる”怪鳥ロプロプ”は、エルスント自身(エゴ)を表しているという。
また、木片や葉っぱなどの上に紙を置いてこすることで質感を写し取る「フロッタージュ」や、絵の具を紙などに塗ってから押し付ける「デカルコマニー」など、さまざまな技法を用いました。
これだけでなく、廃棄物や雑誌などもコラージュに使い、シュルレアリスムとして多くの表現に挑戦しました。
予想できないものを生み出す創造性を偶然のプロセスに見い出す、シュルレアリスムの美学をエルンストは追求し、意図しない偶然性に深層心理の表出を見い出そうとしました。エルンストの芸術や理論は、第二次世界大戦後にアメリカで活躍した画家たちにも大きな影響を与えました。
マン・レイ
1890年8月27日-1976年11月18日
マン・レイは、アメリカ・フェラデルフィア生まれ。おもにフランスのパリで活動した画家、写真家、彫刻家。
ダダ・シュルレアリスムのどちらの正式のメンバーではなかったものの、各ムーブメントを推進した重要な人物である。ダダではマルセル・デュシャンやフランシス・ピカビアらとともにニューヨーク・ダダの活動において重要な役割を果たしている。シュルレアリスムにおいては、作品制作だけでなく、シュルレアリストたちの集合写真やポートレイト写真を撮影して記録化させることに貢献している。
マン・レイはポートレートの他に、Vogueのようなファッション誌にも数々の写真を掲載し、商業的にも大きな成功を収めています。 この間にマン・レイは「レイヨグラフ」と呼ぶ新しい写真技法を編み出し、シュールレアリストとしても活躍しています。レイヨグラフは、カメラを使わず、印画紙の上に直接物体を置き、光を当てることで物体の形を焼き付ける方法です。
1922年には、マン・レイは対象の形のみを捉えるこのミニマリズム的な方法を使って「The Delightful Fields」という最初の本を出版しています。
古賀 春江 こが はるえ
1895年6月18日 - 1933年9月10日
日本の美術家が作品にシュルレアリスム風の表現を発表し始めたのは1929年の二科展である。古賀春江、東郷青児、川口軌外などの作品にその傾向が見られる。ただし皆、シュルレアリスム理論をもとにして描いたものとは思えるものではなかった。
二科展で古賀春江が発表した作品「海」が、一般的に日本で始めてのシュルレアリスム絵画と評価されている。この作品は、『科学画報』の帆船とツェッペリン号、ドイツの潜水艦の図解、『原色写真新刊西洋美人スタイル第九集』の絵葉書の中のグロリア・スワンソンの水着写真などをコラージュした作品である。
岡上淑子 おかのうえ としこ
1928年1月3日 (年齢 92歳)
エルンストに影響を受けた『伝説の女性コラージュニスト』。
岡上淑子(高知出身のシュルレアリスム系コラージュ作家、写真家。
現在(2020年)92歳、高知在住。
1950年、文化学院のデザイン科へ通う。この頃岡上はデザイナーを志望しており、それまでの洋裁の技術も合わせてファッションのデザインを勉強するためデザイン科へ進んだという。そして、この文化学院時にコラージュの制作を始める。
カラーコーディネートの授業で、雑誌をちぎって貼り絵をする課題をきっかけに、コラージュに創作に目覚め、雑誌から顔や手足など一部分を切り抜いて合成する作品を作り始める。初期の作品は、背景である黒い羅紗紙の上にイメージを貼り合わせたシンプルなもので、『LIFE』『VOGUE』『ハーパース・バザー』『Seventeen』といった、当時のグラフ雑誌やファッション雑誌をコラージュ素材として利用していた。
学生時代に瀧口修造に見出され、卒業後、作品が出来あがると瀧口の家行って作品を見せる通うようになるが、そこで、瀧口の部屋で見せられたマックス・エルンストの画集に強いショックを受ける。
特に『百頭女』がお気に入りだったようである。コラージュアーティストとしてデビューして、おもに1950年代に美術活動を行う。
60年代以後は、姿を見せなくなるが、2000年頃から再評価されはじめる。
実際の活動はわずか6年。制作点数は 約100点ほど。その後、岡上は美術の世界からその名は忘れられることになった。
岡上が再発見されたのは1996年。この年に開催された展覧会「1953年ライトアップ 新しい戦後美術像が見えてきた」で岡上淑子作品が出品。再発見したのは写真史家の金子隆一である。そして2000年、44年ぶりに個展「夢のしずく」を大阪のThe Third Gallery Ayaで開催した。
以降、高知県立美術館や東京国立近代美術館、東京都写真美術館、栃木県立美術館、ヒューストン美術館、ニューヨーク近代美術館など国内外の美術館が作品を収蔵し、また近年刊行された作品集を通じた出会いからも新たな岡上ファンは増え続け再評価のスピードは目覚ましいもので、今再び注目を集めている。
まとめ
シュルレアリスムの印象は、なかなか難しく、奥が深いです。ですが、紐を解いていくと真の自由を獲得するということを最大のの目的とした運動です。
ユーモアを重要な要素とする作品、グロテスクな作品、芸術的範疇を離れ、実験と言えるような作品まで多種多様です。
シュールリアリズムの絵画は、美しいとはとてもいえない作品も多く、非常に分かりにくい領域の芸術だと感じます。
90年余りたっても未だなお色褪せない、洗練されたものもたくさんあります。
シュルレアリストは題材も配色も配置も決めず、何も考えず、自然と手が動くままに描く手法だったり、とにかく自由な想像力を解放するための表現を重要としました。
『無意識は自由だし人間の本質。またホンモノの芸術であり、それが真の美になる』
是非、自由な作品創りに挑戦してみてはいかがでしょうか。